TVのやらせや演出には厳しいのにネットでの釣りには寛容な人たち

最近はネット上での釣りという言葉の定義も変わってきてて、明らかな創作や過剰な演出も釣りという。

たまに「この話は明らかに作り話だよな」ってなったとき、大雑把に別けて

  • 作り話だなんて許せん派
  • 作り話を作り話として楽しむのがネット(とくに2ch2ch系コピペブログ)の嗜み派

の論争が起こったりするんだけど、まあそれはどっちでもいいし、
俺が疑問に思うのは、表題の通り
TVのやらせや演出には厳しいのにネットでの釣りには寛容な人たち
が少なからず存在するということ。

インターネットを介して表示された目の前にある情報は「その真偽とスピード、この2点だけは絶対に保障されない」のが常識だった10年以上前からのユーザーにとっては、今更掲示板やコピペブログの情報の真偽性は知ったこっちゃないし、それはそういう了解のもと各々が何を感じるかに関しても自由だった。
そういう意味からも現在でもネット上の趣味性の高いサイトで嘘っこの情報流されたからといって目くじら立てる無粋な楽しみ方をする必要もあるまい。

そういったユーザーは多いのだけど、その中の一部にTVなどのマスメディアの情報に多少でもやらせや演出が混じってると大騒ぎする人間が少なからず居ることには違和感を感じる。
そもそもマスメディアだって話半分に受け入れないといけないなんて話は、20年前まだ子供だった俺でも常識として持ってたし、特別俺がおしゃまさんでどうだすごいだらうっていう話でもなく、周りもみんなそういうつもりでメディアに接していた。
メディアなんて(ネットを含めて)どこも話半分に受け入れながら、それを自分がどう解釈するかが、これだけ情報が氾濫した社会での営み、
なんてことは昔から老若男女問わず行われてたことだし、これが今に来て、ネットでは事実と異なるほどの過剰な演出や全くのデタラメは受け入れられるのに、他の媒体では受け入れられない、とは一体全体どういうことだ?

精一杯考えて、俺が想像できる可能性としては

  1. ネットは眉唾で接している情報を取捨選択しているつもりの人がTVは無条件に信じていたので裏切られた気持ち
  2. そもそも見えない何か巨悪と闘っている

のどれかだ。
2に関しては言わずもがなで可哀想なのであまりふれないであげたいが*1、1に関してはもしこれが当たっていれば
ネットが生まれたことで新たに深刻な情報弱者を生んだ
ひどい状況にあると思う。


最後に印象に残ったネットでの言葉。
ネットをやり始めて生活の何かが変わったか、という問いに対して
マスゴミを疑うようになった。マスゴミが嘘を言っていると知るようになった」
といった類の言葉。
メディアは一方的かつ全面的に信じてもいけない。
ネットに出会う前に、「TVが伝えてることは嘘だ」っていう新聞に出会わなかったのか?
「新聞が伝えていることは嘘だ」っていう本に出会わなかったのか?
「本に書いてあることは嘘だ」っていうTVには?
それらを全部多角的に捕らえて判断できてこその「嘘は嘘と見抜ける人で無いと(メディアを叩くのは)難しい」だと思う。

それらに出会わずいきなりネットから「メディアは嘘だ」だけを引っ張ってきて感化されている、
そういう可能性を考えると怖い。

*1:たまにTVなどのメディアは職業的にお金を貰って情報を伝えているプロだから、という意見もあるけど、コピペブログに関しても宣伝広告費を収入源にして情報を発信してると言う意味では同じなのにも関わらず嫌儲とかの議論はあっても情報の真偽性を編集者はコピペする前に調査するのかとか、色や強調表示で作り手の一方的な印象付けなどが過剰な演出になっていないかまでは絶対議論されないもんね